発酵と変容の350周年
ご挨拶
百薬の長たるお酒を皆さまに飲んでいただきたいと願いながら、四季のうつろいとともにお酒を醸し、その積み重ねが 350年を数えるようになりました。
寺田家の先祖は、江戸時代の延宝年間(1673〜81年)に、滋賀の近江より千葉の神崎の地に蔵を移し、酒造りを生業として参りました。明治維新や世界大戦など、さまざまの困難な時や、平成、令和へと変わり続ける時代を乗り越え、今なお酒造りを続けてこられたのは、支えてくださる皆さまお一人お一人のご愛顧の賜物で、いくら感謝してもしきれないほどです。
このページは、その350年の感謝と喜びを皆さまと分かち合えたらと作成しました。少しでもこの喜びをお伝えし、皆様が350年に思いを馳せていただければ幸いです。
感謝と喜びが350年を紡ぐ経糸であるならば、横糸は発酵と変化でしょう。1980年代に自然酒造りに取り組み始め、以来、より自然なお酒とは何かを問い続けながら、変化して参りました。
「発酵は変わり続けること」、寺田本家を自然酒造りへと導いた23代目当主の寺田啓佐はよく言っていました。「一見、外からは同じように見えても、その中では見えない微生物たちが働き、変化し続けていく。だから腐らないんだよ」と。変わっていくことを恐れず、本物のより良いお酒造りへの進化が350年の道程だったと思います。このページを通して、その変化の一端を皆さまと分かち合えますこと、とても有り難く感謝しております。
第24代目当主 寺田 優
地域と歴史
先々代当主の娘として、また、先代の妻として、今でも寺田本家を支えている寺田雅代が、昭和・平成・令和と変化の多い時代を経て、寺田本家がどのように変容してきたかを語ってくれました。
明治〜昭和の寺田本家
明治時代の当主・敬三郎は寺子屋から小学校を創立し、地元の名士のような存在だったと聞いています。その次代の菊之助は、酒蔵だけでなく銀行も経営するなど、商売に長けた人でした。そのため、私の祖母や母の時代、寺田はお手伝いさんが何人もいるような裕福な家だったようです。
当時、酒蔵のほうでは造りの時期に、越後(新潟)杜氏が10人ほどの蔵人を率いてきて、蔵の2階に寝泊まりしながら酒造りをしていました。昭和初期までは昔ながらの製法でしたが、戦時中に原料のお米が不足し、「少ない材料でいかに安く造るか」を追求するようになっていきました。
「安く造る」時代に婿に入った23代目
昭和27年に寺田の婿に入った父(22代目)は、蔵元になる前は高校で化学を教えていたため、科学的に安いお酒を造る知識はありましたが、商売が下手という自覚を持っていたように思います。一方、夫・啓佐(23代目)は、上場企業の創業者の息子で、経営者としての血を受け継いでいましたので、父は夫が婿に入ると聞いて「すぐに跡を継がせたい」ということになりました。
なぜ自然酒だったのか
「安く造るお酒」から「安心なお酒」へ
日本酒が売れなくなりはじめた時期に跡を継いだ夫は、なんとかしようと、居酒屋や蕎麦屋などの事業に挑戦しました。けれど、その頃に十二指腸潰瘍を患い、体を壊したのです。そこで、安心なお酒を造ろう、という方向に大きく舵を切り、無農薬・無添加の「五人娘」というお酒を造り上げました。
五人娘から始まった変化
五人娘ができてから、応援して下さる方々やファンになってくださる方々が現れはじめました。
その後、玄米酒造りにも挑戦しました。「お米は削れば削るほどいいお酒ができる」という常識がありますが、玄米のままの酒造りを開始。玄米で麹を作るのが本当に大変で、何年もかかって、ようやく香りのいい麹ができ、発芽玄米酒「むすひ」が誕生しました。変わった味のお酒ですが、玄米ということで喜んでくださるお客様がいらっしゃいます。
また、夫は、お酒が飲めない自分でも飲めるものとして、酛場でできた酒母を味見していました。それが今では「うふふのモト」になっています。
変容をつづける
寺田本家
変化には不安がつきものです。でも、「老舗の経営は改革の連続だ」とか、断定的に「これで大丈夫だ!」という夫の口癖を聞いていると、なんだか大丈夫な気がしてきて、寺田は今まで自分たちが進みたい方向に進んでこられました。本当にありがたいことです。
添加物を一切使わず、安心なお酒を造った夫ですが、美味しいかどうかはわからなくて、飾り気のないお酒を造っていました。そういうお酒に、今では24代目の寺田優が、味の楽しみを加えてくれています。
中山省三郎 編:左千夫の手紙, 八雲書店, 1947
寺田本家と文人・歌人たち
皆さまの中には、寺田本家の『五人娘』がアララギ派の歌人であり文学者でもある土屋文明氏の命名であることをご存知の方もいらっしゃると思います。実は、他にも近代の文人・歌人の方々と寺田本家の間に豊かなつながりがあったことをご存知でしょうか。
明治34(1901)年に寺田本家へ婿入りした寺田憲(20代目当主)は、幼い頃より作歌にいそしみ、絵画にも造詣が深い人物でした。
彼は、学生時代に詩歌の同人誌『心の花』や月刊文芸誌『明星』に参加し、歌人としての活動を開始します。酒造業を継いだ後も、『アララギ』『馬酔木』『アカネ』などでも作品を発表し、多くの歌人たちとの交流を深めていきました。
当時、素封家でもあった寺田憲は、歌人として活動するだけでなく、短歌雑誌の発行費用を支援したり、学資を援助したり(時には生活費の援助まで)と、歌人たちのパトロン的な役割も果たしていました。
そのため、伊藤左千夫、与謝野鉄幹、佐々木信綱、斎藤茂吉など、近代日本を代表する文人・歌人たちと寺田憲の間で交わされた書簡がいまでも残っています。
書簡の内容は、寄附や金品についてのやりとりだけでなく、近況報告、身内の相談事項など多岐にわたり、当時、寺田憲が彼らの経済的な支えになると同時に、精神的な支えになっていたことも伺い知ることができます。
詩歌をはじめとして、文化・芸術を大切にする雰囲気は、今の寺田本家にも受け継がれており、さまざまな才能をお持ちの方々が集い・交流する場所になっています。
寺田本家の
酒造りの楽しいところ
今の寺田本家のお酒造りの楽しさを、現在の蔵人たちに教えてもらいました。
寺田本家の中で繰り広げられる楽しい時間。
そんな楽しい気持ちが微生物に通じて、呑むと元気になっちゃうようなお酒が生まれます。
- 正解がないということ
- 思う存分思いを込められること
- 思いを込めてできたもので、飲んでいただいた方を笑顔にできること
- 見えない菌と共同作業するということ
- 見えない菌を感じられること
- 時間をかければ発酵するように微生物を信じられるようになること
- 先人たちの肩の上に乗って、仕事ができること
- 腹の底から声を出して唄を唄えること
- 季節の移り変わりを感じながら仕事ができること
- 一年に一度しか体験できないこと
- 道具から手作りできること
- いろんな職人さんの仕事に囲まれていること
- 冬の朝の空気が清々しさを知れること
- 五感をフルに使って仕事ができること
- うまくいかないことと、うまくいくことがいいバランスで起こること
- 素敵な生産者さんに会えること
- 素敵な飲食店さんに会えること
- 世界中からゲストがやってきて、交流できること
- お米を育てるところから取り組めること
- 田んぼの草取りが終わった時の達成感を毎回味わえること
- 田んぼでいろんな生き物に囲まれること
未来へ
未来のビジョン
寺田本家の描く未来には何が見えるでしょう。
酒造りの現場では、今と変わらず蔵人たちがキビキビとお酒造りに取り組み、酒造り唄が響いてきます。100年以上大切に使われている木造の蔵の中では、職人さんたちが作った桶や道具たちがきれいに磨き抜かれた状態で整然と並び、出番を待っています。そしてそこに昔から生きづく微生物たちも蔵人たちと共に嬉しく楽しく有難く、お酒を醸し続けてくれています。
エネルギーの自給も進み、昔のように木質燃料でお湯を沸かしているようになっています。その頃には自然酒は当たり前になっていて、もはや自然を名乗る必要もなく、日本酒=自然酒という時代になっているかも知れません。
蔵を抱く神崎神社の杜は、静かにそれを見つめながら、大きく枝葉を伸ばしています。杜を支える土中には木々の根と菌糸が絡み合い、呼吸し、水が巡り、蔵の中の井戸水も変わらず枯れることなく渾々と湧き続けています。
一方、町の様子に目を向けると、寺田本家の前の通りには小さな店が軒を連ね、店先では地域の人と、遠方からの旅人が、袖を触れ合わせ交流を深めています。町内では農家さんが笑顔で、誇りをもって農業に取り組み、田畑から生み出される高品質な農産物が町内の生業を育む源泉となっています。笑顔が溢れる地域の中で、自然と共にお酒造りが続けられたら、それが私たちの描く未来です。
未来へ向けて今
この思い描く未来を実現するために今できること、それは自然に学ぶこと。
復田プロジェクト
寺田本家では2021年より、復田プロジェクトを始めました。より自然なお米作りがしたいと願い、10年以上放置されてきた谷津田(やつだ=谷間に挟まれた田んぼの呼称)をお借りして、田んぼへと戻しています。
放棄田があると聞いて最初に見に行った時、放置されている間に生い茂った草や篠竹が道にも田んぼにも覆い尽くし、所によっては灌木も生えていました。ただ、山からの搾り水が田んぼに垂れる沢に、サワガニがいるのを見つけ、その豊かな自然環境に目を見張りました。この沢の水でお米を育て、それでお酒を醸すことができれば、また一段、自然酒の奥深い世界に分け入ることができるようになるのではないか、そう考えて蔵人たちと開墾を始め、草を刈り、水を引き、徐々に田んぼへと復田が進んでいます。1年目の2022年は、まだ収量は微々たるものですが、その米を原料にしたお酒を350年記念酒としてお届けできればと願っています(この文章を書いている時点ではまだ稲刈り中です)。
木桶・竹ざる
酒造りにはたくさんの道具が使われます。かつて、木や竹などの地元にある自然素材のものが多く使われていましたが、次第にプラスチック製品などに置き換わっていきました。作ることができる職人さんたちも少なくなってきています。木や竹などの自然素材を使わなくなったために、森に人が入らなくなり、それが山が荒れる要因の一つともなっています。
職人さんたちと一緒に仕事ができればと、2013年木製の甑(こしき=お米を蒸す器)を大阪の職人さんにお願いして作っていただき、使い始めました。木を使うことによって蒸し上がりも良くなり、昔の素材の素晴らしさを感じています。さらに、米を運ぶ米揚げざるは栃木の若い竹職人さんに作ってもらいました。そして、現在進行で地元千葉の山武杉を使った新しい木桶を作るプロジェクトも、小豆島の職人さんたちの協力のもと、進んでいます。山武で森林整備をしている仲間の森から伐り出すところから始める木桶も計画に含まれており、350年目から使い始める木桶で自然酒造りの新しい広がりをお届けできたらと願っています。
カフェ
寺田本家がカフェを始めたのは2016年からです。通りにお店が増えるきっかけになればと思い、蔵に隣接する古いアパートをリノベーションし、お酒造りの副産物である酒粕や糀と地元の農産物を合わせて、発酵をより身近に感じてもらえる場をご提供したいと始めました。そしてお店で使われる発酵調味料シリーズも少しずつですが商品化しております。ご自宅で、そして蔵で、発酵を体感していただければと願っております。
エネルギー
自然の制約のもとに生まれるのが自然酒です。無制限にエネルギーを使えた時代は過ぎた今、電力については2020年より再生可能電力を100%を使用することが可能になりました。
そのほかのエネルギーについても、早い時期に再生可能エネルギーに変革していくことを目指しています。
過去からの学び
「自然に学ぶ酒造り」と唱えてかれこれ30年。今回350年を迎えるにあたって、過去・現在・未来へと一部を皆様にご覧いただきました。蔵の中で生きる微生物たち、寺田本家を受け継いできた代々の蔵元、現場を支えてきた杜氏さんたち、そして、お米を作る農家さんたち。350年の間受け継がれてきたこの関係は、まさに発酵的です。一人一人の個々は世代と共に変わっていきますが、この大きな仕組みは変わらず生き続ける。そして、それを支え続けてくださる皆様のご愛顧があってこそ、この仕組みは生き続けることができます。心より感謝しております。
次の節目の創業400年目の時、それは2073年。
自然酒とは何か問い続けることで、50年後、さらにその先の未来の寺田本家の自然酒がますます皆様のお役に立てるものになり、さらに微生物と共に生き、自然を愛する皆様とご一緒にこれからも発酵し続けることを誓います。